蓮久寺の縁起は『上総国古文書』によると、天正9(1581)年6月28日、里見家の家臣で、三直城の城主であった忍足治部少掾弘連から、この地域で布教活動をしていたと思われる本谷坊という僧侶に判物(証文)が出され、その紙背に「三直村蓮久寺」との註記があります。その中で弘連は、本谷坊が新寺を建立したいという理由を認め、それを見守るとしています。
第6世日暢上人の代、寛政4(1792)年7月に梁間7間、桁行5間の本堂が建立されました。現在の本堂の向拝はこの当時のもので、水戸の彫刻師、嶋村伊三郎忠友の彫刻が施されています。
また、第3世日讃上人を願主として正徳2(1712)年に郷中の安泰を願って七面大明神が祀られたことが、蓮久寺に残る「棟札」から分かっており、その棟札に徳川家の旗本で、時の地頭であった赤松信濃守の名前が記されています。
明治時代に学校制度が発布された時、蓮久寺が三直小学校として指定されました。従来あった寺子屋をそのまま小学校として指定したことが多いことから、江戸時代から地域の学び舎としての役割も果たしていました。寺子屋時代に使われていた教科書も、多数所蔵しています。 |