日本の緑茶紅茶の祖、多田元吉翁
多田元吉とは
 日本で初めて紅茶の生産に取り組み、近代日本茶業の貢献に尽力した人物。
文政12(1829)年に富津市で生まれ、明治2年、東京から徳川家15代将軍より払い下げられた静岡の丸子に移住し、広大な茶園を開きました。
生い立ち
文政12年
(1829)
3月11日
富津市富津の多田荘次郎の長男として生まれる。
若くして江戸に出て、千葉周作に剣術を学び、幕臣となる。
慶応3年
(1867)
9月
元吉(満39歳)は神奈川奉行下番として蝦夷警備派遣部隊の先発隊に組み入れられ北海道へ渡ったが、榎本武揚が五稜郭に籠城して官軍と戦闘する前に江戸に戻り、江戸町奉行に協力して治安維持に当たった。
明治元年
(1868)
11月
幕府解体後の明治元年(1868)11月に、徳川慶喜に従って駿河国に赴く。
拝領した長田村(現静岡市丸子)赤目ヶ谷の官林5町歩を開拓して茶の栽培を開始した。
明治8年
(1875)
明治政府は元吉の製茶技術を評価し、内務省勧業寮に配属、中国・インドへの視察を命じた。
明治9年
(1876)
インドのアッサム地方、ダージリン地方、セイロン島に向かい、翌年帰国。アッサム地方から持ち帰った紅茶の原木を丸子(静岡県)で栽培し、機械技術の研究も併せて行った。
  以来、その知識をもって製茶について全国各地に指導・講演を重ね、内国勧業博覧会の審査員になるなど製茶振興に尽くした。
   
紅茶生産に至ったワケ
明治期、茶は、生糸と並ぶ日本の重要輸出品であり、最大の輸出先は米国でした。
初め輸出品の中心は緑茶でしたが、緑茶が粗悪茶の横行により信用を失い価格を下げると、政府は、欧米でよく飲まれていた紅茶の製造を奨励するようになりました。
明治8年、勧業寮の官吏だった多田元吉(1829―1896)は、紅茶製法を調査すべく中国・インドに派遣されました。
多田は、インドのアッサム地方、ダージリン地方、セイロン島で調査を行い、インドからアッサム種の原木を持ち帰り、日本での紅茶製造の普及に努め、静岡県丸子で紅茶の栽培に成功しました。
多田元吉翁の功績を称える碑

多田元吉翁の功績を称え、碑が建てられています。
杉山彦三郎らに茶の栽培・製造を指導するなど、多くの茶業人に大きな影響を与えました。

●多田元吉翁碑
●所在地/静岡市葵区丸子6850(起樹天満宮内)
●駐車場なし

(静岡市ホームページより) https://www.ochanomachi-shizuokashi.jp/recommend/5002/

多田元吉の生んだ紅茶 丸子紅茶(まりここうちゃ)

丸子は多田元吉翁縁の地であると同時に、国産紅茶発祥の地として呼ばれることもあります。
日本の緑茶紅茶の祖、多田元吉翁の製法の再現、紅茶には不可能と言われていたやぶきたを独自に開発した技法により実現。
本山茶標高600メートルの実生からの在来種による紅茶製造を行っています。


(丸子紅茶ホームページより)  https://www.marikotea.com/index.html

[参考]
富津市 ホームページ
国立公文書館ホームページ