木更津を一躍有名にした
証城寺の狸ばやし


話題の「朝の連続テレビ小説」にも登場する「証城寺の狸ばやし」。
ゆかりの「證誠寺」がここ、木更津の地にあるのはもうご存じですよね!?
では、この問題は解けるかな!?

 ◆ 問題! 
童謡「証城寺の狸ばやし」が、ラジオで初めて全国放送された年は、いつでしょうか?

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(1)大正13(1924)年

(2)昭和3(1928)年

(3)昭和10(1935)年

(4)昭和17(1942)年
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 ◆ 証城寺の狸ばやし 
まず、童謡の歌詞に記されている「証城寺」と、お寺の名称の「證誠寺」の文字が違うことに気付かれたでしょうか?
證誠寺には古くから次のような民話が残されています。

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昔、證誠寺の境内は夜になると訪れる人もなく寂しいところでしたが、萩の花咲く季節の風情はまことに見事なものでした。
そのような季節のある夜半過ぎ、なにやら騒がしい外の気配に目を覚ました和尚さんが、そっと戸の節穴から庭の方をのぞき見ますと、大小100余りの狸が、膨らませたおなかを太鼓にして打ちならし、「しょうじょう寺山のペンペコペン おいらの友達ドンドコドン」と繰り返し唄っておりました。
踊り続ける狸にひかれ、和尚さんもいつの間にか狸の仲間に入って踊り、楽しみました。次の夜も同じように楽しみましたが、3日目の夜はどうしたことか狸たちは姿を見せませんでした。
翌朝、庭先を見て回った和尚さんは、お腹の皮が破れて息絶えた狸を発見しました。かわいそうに思った和尚さんは、狸を丁重に葬りました。その場所が今の狸塚であるといわれています。
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この民話は、郷土の文学者である松本斗吟の著書『君不去』で発表されました。
その後、木更津に講演に来た野口雨情に世話役の先生からこの民話が紹介され、中山晋平により曲がつけられ、大正13(1924)年に童謡「証城寺の狸ばやし」として発表されました。

「証城寺の狸ばやし」は、昭和3(1928)年に現在のNHKの前身であるJOAKのラジオで放送され、木更津の地名を全国に広めました。

昭和4(1929)年には千葉師範学校の体育の教師により踊りの振り付けが創作され、木一小の子どもたちに継承され親しまれています。毎年10月第3土曜日に「證誠寺」で行われる「狸まつり」で披露されています。
狸まつりで踊られる「証城寺の狸ばやし」



 ◆ 正解は、(2) 


 ◆ 問題! 
「證誠寺」の本堂には、放浪の画家として有名な山下清の描いた絵が掲げられていますが、その構図はどれでしょうか?

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(1)境内で踊る狸と和尚さんを描いた絵

(2)桜に映える鐘楼を描いた絵

(3)本堂正面に住職の立ち姿を描いた絵

(4)仲秋の名月と狸塚を描いた絵
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 ◆ 證誠寺 
木更津と江戸の間の五大力船の就航に伴い、東京湾沿いの小さな漁村にすぎなかった木更津は、房総半島有数の港町に変身しました。

江戸で成功を収めた商業者たちは、自分の店で働く者や身内を木更津へ移住させて新たにお店を開きました。このことにより木更津の商業町が形成されたのが、およそ350年前です。
移住してきた人々の多くは関西地域の出身者で、浄土真宗の壇信徒でした。ところが終の栖と決めた当時の木更津には浄土真宗のお寺が無く、先祖の供養や葬儀等に不都合がありました。そこで、京都西本願寺を勧請して證誠寺が開山されたのが、およそ300年前のことです。

證誠寺のある場所は、かつては鈴ヶ森と呼ばれた村はずれの寂しいところで、近隣の人々の様々な噂から、和尚さんと狸の民話が生まれ、大正9(1920)年には物語として整い、大正13(1924)年に童謡「証城寺の狸ばやし」が発表されて木更津の知名度を一躍高めました。

證誠寺の本堂内には、現在の天皇が学習院の生徒の時代に木更津に蓮の開花を見に来られた際のスナップ写真や、放浪の画家として有名な山下清が昭和30(1955)年頃、木更津に立ち寄った際に描いた絵が掲げられています。
▼放浪の画家・山下清が描いた絵


 ◆ 正解は、(3) 

※写真や内容の無断使用・転用を禁止します
▼出典「好きです!きさらづ検定ガイドブック」より
 
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