日本武尊が相模から房総へ向かう海上で嵐に遭ったとき、妃の弟橘媛命は自ら海中に身を投じて龍神の怒りを解き、暴風を鎮めたと伝えられています。その後無事、上総へ渡った武尊は獅子山に登り、妃を追慕しつつ海路を「不斗(ふと)見そらし給う」たので「ふとみ」すなわち「人見(ひとみ)山」となったと言われています。
人見神社は奈良時代以前、孝徳天皇の代に日向国より勧請されました(別当・青蓮寺の「妙見縁起」)。また、かつて近郷の大堀の地にわずか二戸しかなかった頃、うち太右衛門が草刈をしていて妙見尊像を見つけ、もう一人の市右衛門と相談して獅子山に祀ったという「妙見隠し」の伝承も残されています。
天慶3(940)年、平忠常が上総介として赴任した折に、武蔵国より北辰妙見の神霊を上総・下総各地に勧請しました。その中の代表的な一社が人見神社です。源頼朝も治承4(1180)年、相模石橋山の合戦に敗れ、再起を期して内房の礒根伝いを舟で進軍の際、小糸川河口に着岸し、人見神社に武運長久の祈願文を捧げたと伝えられています。天正19(1591)年には徳川家康より良田五石の朱印の寄贈があり、元禄4(1691)年には領主、小笠原彦太夫より大刀の献納がありました。小笠原氏は以来、例祭に奉幣参拝を欠かさず、寛政9(1797)年、小笠原兵庫と氏子らが浄財をもって春日造の社殿を造営しました。
明治時代には神仏分離の国策を受けて郷社となり、妙見菩薩は観音堂に祀ることになり、高度経済成長期には、麓の湾岸に大規模な製鉄所が建設されるなど、周囲の景観は変貌しましたが、人見神社は近郷近在の人々を見守り続けています。 |