かずさ地域の兎話
「徳川家との約束」
 献兎乃記念碑
 松平家(後の徳川家)の祖である松平有親・親氏父子が永享の乱に敗れ、諸国を流浪している際、信濃国林郷(現在の長野県松本市)で、旧知の武士である林光政(林家の祖)が彼らを匿まったといいます。そして、自身も食に窮する中、光政は雪中に兎を捕らえて有親・親氏父子に振る舞いました。
 家康はこの先祖に対する恩に感謝し、毎年正月には林家が将軍に兎の吸い物を献上し、将軍から新年一番の酒を賜るという「献兎賜盃」を徳川幕府として儀式化しました。途中、中絶はありましたが、「献兎賜盃」は幕末まで廃されることなく続けられました。

木更津市の上根岸には、 その歴史を物語る「献兎乃記念碑」があります。
<献兎乃記念碑>
場所 八坂神社 木更津市上根岸171
←←碑の下部に彫られている兎
 木更津 請西藩 譜代大名林家について

▲3代目 請西藩主 林忠宗

 林家は徳川家直参の旗本で、14 代忠英が先代までの知行3千石に7千石を加え1万石を領しました。文政10(1827)年貝渕村に陣屋が設けられたのち 15 代忠旭により貝渕村から請西村へ陣屋を移しました。
 請西藩の注目のひとつに、幕末の動乱期に藩主自ら脱藩し、戊辰戦争に参加して新政府軍と戦った結果、明治維新において全国で唯一取り潰しになったことです。この処分によって失われた家格の再興には、20年以上の年月がかかりました。その後、林家は華族となり、当主忠一は最後の貴族院議員を務めました。



 真武根陣屋跡 (上総国請西藩藩主 林家 1850年〜1868年)

 真武根陣屋は嘉永3(1850)年に築かれた請西藩の陣屋で、近世の木更津港から約2q南東に入った標高約50mの台地上に築かれました。請西藩の陣屋はもとは1.5q北西の貝渕にありましたが、林忠旭(ただあきら)が藩主のときに「間舟台」に移し、「真武根陣屋」と呼ばれました。
 安政元(1854)年、忠旭は弟の忠交(ただかた)に家督を譲りましたが、忠交は慶応3(1867)年に没したため、忠旭の子、忠崇(ただたか)が藩主となりました。
 林忠崇は、戊辰戦争の折、藩主でありながら自ら脱藩し、陣屋に火を放ち、旧幕府遊撃隊の要請に応じ出陣しました。出陣後、各地を転戦しますが、最後は仙台藩の説得に応じ降伏。請西藩の領地は没収され、藩は消滅し、陣屋も廃されました。その後、長寿を全うした忠崇は、昭和16(1941)年まで生き、「最後の大名」の異名をとりました。
<真武根陣屋跡> (上総国請西藩藩主 林家 1850年〜1868年)
場所 木更津市請西1139-33
 <真武根陣屋御城印 販売中>
 ◆真武根陣屋御城印


林家では、徳川家よりうけた栄誉を家紋に表すべく、拝領紋の「丸に三巴」の下に「一」の文字を加えました。
 「御城印」のデザインはその家紋「三つ巴下に一文字」、および「三階菱」をデザインし、林家の誇りである「献兎賜盃」を描いた絵がモチーフにされています。

◎販売価格 300円(税込)



〈販売場所・問合せ〉


TEL0438(22)7711
木更津市富士見1‐2‐1

スパークルシティ木更津1階
   木更津市観光案内所



(詳細)
かずさの御城印
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