源頼朝と上総の地

多くの自然と歴史に囲まれた木更津市ですが、海や山河などの他にも様々な場所があります。
その中に、今話題の「鎌倉殿の13人」にも登場する「源頼朝」に関する伝説があります。
遥か昔の先人の面影を探してみてはいかがでしょうか。

 ◆ 畳ヶ池 
市の中心部から北東方面へ約1.5q、徒歩でおよそ20分のところにある畳ヶ池。
一見、何の変哲もない溜め池ですが、「いい国作ろう鎌倉幕府」でおなじみの、建久3(1192)年に鎌倉幕府を創設した源頼朝の伝説が、ここ畳ヶ池にはあるのです。

源頼朝は平治元(1159)年の平治の乱で捕らえられ、伊豆に流刑となります。
治承4(1180)年には平氏打倒のため挙兵するも相模の石橋山の戦いに敗れ、安房の国へと逃亡します。
しかし、まもなく体勢を立て直すと上総国、下総国と行軍をし、関東一円を制覇して鎌倉に入ります。
その進軍ルートには様々な伝説が残されており、畳ヶ池の頼朝伝説もそのひとつです。
畳ヶ池
頼朝の一行が北上する際に、美しい景観の池の畔で昼食をとることになりました。
しかし、辺りは葦が繁り湿っており、腰を下ろしての食事ができなかったということです。そこで、地元の名主や村人が池の周りに畳を敷いて歓待したことが“畳ヶ池”の名称の由来と言われています。また、この池の葦を箸の代わりに使ったのですが、過って葦でくちびるを切ってしまい、怒った頼朝が葦を池に投げ捨ててしまい、それ以降この池には葦が生えないという言い伝えもあります。
 
▼プラスワン! 北斎も滞在していた「畳ケ池

県指定有形文化財の葛飾北斎の絵馬額「板絵著色富士の巻狩図絵馬」が、長須賀の日枝神社にあります。
ヒノキ材の横長の板4枚をあわせた大きさで、縦139.5cm、横180.5cmの家形の額面に、源頼朝が建久4(1193)年に行った富士の巻狩をモチーフに描いたものです。
北斎得意の急角度の富士山を背景に、傷を負った猪が牙をかけ負傷者が続出するなか、仁田四郎が猪の背中に乗って止めを刺すという勇壮な場面の武者絵で、完成当時は華やかな色彩にあふれた豪華絢爛たる絵馬額であったと思われます。

これは、北斎が八犬伝の挿絵を描くため実地見聞に上総路へ来たとき、同所畳ケ池の辺にしばらく滞在していた際、土地のものから頼まれて描いたものと伝えられています。
文化3(1806)年6月頃、47歳の壮年期の迫力ある画技をうかがうことができます。
北斎は文化2(1805)年頃から「葛飾北斎」と号するようになり、左下の落款には「画狂人北斎旅中画之印」と署名してあります。 画面中の猪の眼がえぐられて黒くなっているのは、祭の仕度で若衆が神社へ泊ったとき、猪の眼玉が光りすぎて気味がわるいと、故意にいたずらしたものだとか。
頼朝伝説も残る畳ケ池を北へ200mほど向かうと140年以上の歴史がある西清小学校、そのとなりに日枝神社があります。
明治4(1871)年山王社の社号を改め日枝神社としました。終戦後社殿の改修をし、平成17(2005)年には朽ち傷んでいるところをすべて修理する大改修を行いました。
北斎が描いた絵馬額

 秘仏木造観世音菩薩立像を寄進 畑沢浅間神社 

畑沢浅間神社は畑沢字浜ヶ谷の丘陵上にある旧村社で、長い石段を上る途中に庚申塔や富士浅間講の石碑があります。富士信仰の拠点として信仰が厚く、西方に富士を望んでいます。
創建は定かではないほど古く、伝承では日本武尊が東国に来られたおり浜ヶ谷の山嶺に参籠し、富士嶽を遥拝し、鎮撫祈願の霊殿を奉祀し観請したのがこの社の始まりと伝わっています。
後に、治承4(1180)年、源頼朝が北上して下総に向かう途中、この社に武運長久を祈願したと伝えられ、その後、平家を破り鎌倉に開幕した際に、お礼の気持ちから秘仏木造観世音菩薩立像を、浅間神社に寄進したと伝わっています。
畑沢浅間神社の鳥居
木更津方面から富津岬方面とつながっている新日鐵住金前の国道16号ではなく、旧道と呼ばれている1本南側にある通りを木更津方面から進んで行き、日東交通の富津線・畑沢バス停付近、食堂の先の信号を左折してすぐ左側に浅間神社が見えます。
富士山と書かれた鳥居をくぐって参道を進むと、さほど急ではない階段がいくつか途切れたりしながら奥の方へ続いています。
途中に石碑や狛犬がいつもあり、途中から右側に女坂が見えて来ます。山頂近くの歴史を感じる階段を上がると本殿に到着します。「浅間宮」社額の少し奥を覗くと、「富士山」の額があり、富士山を信仰していることがうかがえます。
本殿にある富士山の額

 ◆ 今に伝える頼朝ゆかりの獅子頭 
中郷地区曽根の釈蔵寺には源頼朝の伝承が残っています。
頼朝
が安房から下総へ向う途中、この寺の巽の方角に五町程度の草原があったので、そこに陣を張り兵馬を休め、その際に釈蔵寺に入り、本尊の釈迦如来坐像を拝し、失った一族の冥福を祈り、戦捷祈願をされたといわれています。
また、陣を張った付近に、幕内白幡大明神という祠を建てたので、この地域には「東白幡」「西白幡」という地名が残ったと伝えられています。
頼朝は釈蔵寺で参拝が済むと下総に向い、途中、市原市立野の長右衛門家で休息したそうです。この長右衛門は大いに歓迎して、兵には兵糧、馬には秣を与えて、庭先で戦捷祈願の獅子舞を奉納しました。この振る舞いを頼朝は大いに喜び、長右衛門に御礼として膨大な土地を与えたとのことです。
釈蔵寺本堂


どういう経緯があったか不明ですが、その後、この戦捷祈願で舞いに使われた獅子頭が金田村の石渡家に移り保管されることになったようです。
江戸時代、石渡家の二男が分家するときに、財産分与の変わりにこの獅子頭を持って曽根に移り住んだといわれています。
獅子頭は桐の一本の木をくり貫いたもので、曽根の石渡家では大切に保管されています。

▼石渡家に伝わる獅子頭
▼プラスワン! 「曽根の釈蔵寺」

釈蔵寺は、中郷地区曽根96番地に所在しています。
真言宗智山派に属し、納められている釈迦如来坐像と薬師如来立像は『上総国釈蔵寺縁起』によると、和銅2(709)年に行基上人が彫刻されたものと伝えられています。この釈迦如来坐像は、木造の丈六仏で大きく、「曽根の大仏」ともいわれています。しかしながら現在ある釈迦如来坐像は永暦元(1160)年に河川の氾濫で仏頭のみが下流に漂着し、胴体部分は元禄9(1696)年に修復されたものといわれています。
 平成19(2007)年木更津市指定文化財に登録されました。通常釈迦如来坐像を拝観することはできませんが、格子戸の間から仏頭を拝むことはできます。

>>>「釈蔵寺」についてもっと掘り下げる!

 ◆ 頼朝伝説を今に伝える鎌倉街道 

源頼朝にまつわる伝説には鎌倉道(古道)が出てきます。
地元(小浜地区)に昔から伝わっていた「鎌倉街道」は、ここを通って頼朝が西暦1185年(元暦2年→文治元年)の混乱期に軍勢を従えて、現在の畑沢に集結したとされています。
畑沢の地名は、とても良い竹の産地でもあり、頼朝はこの地で竹を切り出して軍旗(白旗)を作ったことから、この地を旗竿村と命名し、それが畑沢村となり現在に至ったとも伝えられています。
畑沢地域も含めて、鎌倉へ攻め入ったときに通った鎌倉街道といわれていた街道がいくつも存在します。しかしながら近年の開発などでその一端すらうかがえる街道は少なくなっています。

港南台1丁目から港南台2丁目までの大久保地区との尾根沿いにわずかにまだ昔の面影を残す街道(古道)が残っています。 地元住民の協力によって現在も歩くことができます。

鎌倉街道
地元の方々のご尽力で港南台中央公園脇の階段に、看板が設置され、入口はわかりやすくなっています。
開発された風景が一変して、古代・中世の人々もこのような樹海を歩いたのだろうことが想像させられます。

この鎌倉街道を港南台1丁目で階段を降りると、住宅街を挟んで反対側にも山が確認できます。 現在は消滅していますが、三角縁神獣鏡が出土した手古塚古墳のあった場所でもあります。 また、この山には小浜地区で保存している水神社がありますので、参拝してみてはいかがでしょうか。
港南台1丁目 入り口
鎌倉街道の看板 港南台2丁目入り口
▼プラスワン! 「歩いて見つける文化財」
さらに道を歩きながら貴重な文化財を見ることもできます。
1つ目は「庚申塔」。この庚申塔は正徳3(1713)年、小浜地区の齋藤六右衛門により建てられたものです。

2つ目は、古墳群の一つで「円墳(未発掘)」が眠っています。区画整理事業で俵ヶ谷古墳群は15基中11基の発掘調査が行われ、4世紀〜7世紀始めにいたる古墳群と判りました。古墳からは「捩文鏡」という銅鏡が出土しています。調査の結果この古墳群は4世紀後半頃造られたのが最初ということがわかりました。

>>>「庚申塔」についてもっと掘り下げる!

 ◆ 鎌倉みち(鎌倉街道) 

建久3(1192)年、源頼朝は天下統一を成し遂げて征夷大将軍の位につき、鎌倉に幕府を開きました。
頼朝は、幕府に逆心を持つ者により戦乱の事態が発生した際に、各地の守護・地頭へ急使を派遣し、広い地域の武士達が「いざ鎌倉」と押取刀で駆けつける(取るものもとりあえず急いで駆けつける)ための街道を、およそ5年の歳月をかけて整備しました。
木更津は、東京湾を渡れば、対岸の三浦半島を経て最短距離で鎌倉入りできる地の利があり、貝渕には船着き場のあった証として「渡海面」と呼ばれる古い地名が残っています。そして周辺地域から木更津へ向かう街道として、袖ケ浦市川原井〜野田地先、木更津市請西〜下烏田地先などがあり、現在でもその街道の跡が部分的に残っています。


かつて街道があったことを示すものとして、中烏田地先に道しるべがあり、「右ハ加らす田道 北加まくら道 左ハ高くら道」と記されています。この道しるべの建てられた年代は不明ですが、土地の言い伝えでは、建久年間(1190〜1199)のものといわれています。
中烏田に残る「鎌倉みち」の道しるべ

釈蔵寺

曽根にある釈蔵寺は、山号を鷲光山とし、真言宗智山派の寺院です。
平安時代の作と思われる薬師如来立像や二天王像があることから、少なくとも平安期には創建されていたと考えられており、同寺に伝来する「上総国釋蔵寺縁起」(元禄4(1691)年)には、聖武天皇により、天平5(733)年に建立されたとあります。

ご本尊で市指定文化財の「釈迦如来坐像」は、江戸時代以前のものとしては県内で三例しか確認されていない丈六(一丈六尺)の仏像です(高さ244cm)。木造寄木造りで、形状から見ると、作られたのは鎌倉時代の初期、12世紀末、もしくは13世紀初頭で、当時の一級の仏師の作と推定されます。

釈蔵寺では、毎年4月8日に「花祭り」が開催され、この釈迦如来坐像を見ることができます。
また、境内では、米や野菜を断ち、木の実を食べて修行する木食観正を慕う光明真言講によって建立された「木食観正碑(供養塔)」や、高間傳兵衛の子孫が自宅で門下生を教え、死後に門下生が師を偲んで立てた「筆子塚」なども見ることができます。
木食観正掛軸
木食観正碑(供養塔)

「庚申塔
庚申塔とは、江戸時代に流行した庚申信仰によって建てられた石塔で、全国で見られます。この庚申信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。

60日に一度廻ってくる庚申の日の晩、人が寝てしまうと体の中に住む三尸九虫が抜け出て、天の神様にその人の犯した様々な罪を報告に行くと考えられていました。
報告を受けた神様は、その罪状に応じて命の長さを決めるのです。その夜、人々は不眠で念仏を唱え過ごします。
年6回、3年間の座を組むと、その記念に庚申塔は建てられます。この信仰は今ではほとんど忘れ去られてしまいましたが、小浜地区では夜通しではないものの、近年再び復活しました。
江戸時代の小浜地区は、戸数54戸、72石弱という、地域で最も小さな村の1つでありながら、元禄12(1699)年を初めに、正徳・享保年間など7基が次々に建てられています。
▼庚申塔
▼踊る三猿
そのうちの1つは、一般的な「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿と違い、左の猿は扇子を、中央の猿は楽太鼓を、右の猿は鈴と御幣を持つという、「踊る三猿」が彫り出されています。いわゆる「三番叟」を表現しているのです。


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▼出典「好きです!きさらづ検定ガイドブック」より
 
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「畳ヶ池」
 
「畑沢浅間神社」
 
「頼朝ゆかりの獅子頭」
 
「鎌倉街道」
 
「鎌倉みち」